震災記

    


       1995年1月17日自宅周辺                            現在の自宅周辺 (2003)

         Am 17. Jan. 1995   Aussicht  ueber Unsere  Wohnung               Die Aussicht von heute neben uns
                         Es war  Unfall , Kobe-Awaji  Erdbeben




1995年1月17日、私達家族は熟睡中、震度7の
激震に突然見舞われました。。。

ちょうどその時長女が出産後の里帰りをしていて
家族は7人、生まれて17日目の孫娘と1歳半の
孫がいました、

1階で寝んでいた私達夫婦は、突然の床から突き
上げる衝撃(一瞬夢の中だと思った)に叩き起こ
され、次の瞬間、台所の食器棚のガラス、陶器の
破壊音に驚愕しました、闇の中手探りで家具の間
をすり抜け、2階に寝ていた、子供、孫達に「大
丈夫かー?」と大声でどなる、「大丈夫」と言う
返事に一安心。。。

懐中電灯を探すが家具は全て倒れて所在が解らない、
そうする内、夜が白んできてやっと状態が見えだし
たのです、何気なく窓の外を覗くと何と壊滅的な
街並になっているではありませんか、地震後、数
十分は全く静寂だったのです、と言うか何が起き
たのか把握するのに時間が掛かったのかも知れま
せん、

助けを呼ぶ声が聞こえて来たのは暫く後でした、
同じ市内に住む娘婿がすぐに自転車で倒壊した
屋根を乗り越え尋ねて来て、無事を知ると息子と
一緒に怪我人の救助に向かいました、私は繰り
返し起きる余震に家族を守るのが精一杯、娘の
嫁ぎ先の自宅と主屋は全壊、義父はタンスが倒れ
てきて頚椎損傷、義母も軽傷、でも身内で命を落と
した者が出なかったのが不幸中の幸いでした。

私の自宅は木造在来工法の2階建て、自身で設計
した築後8年のローコストハウス、幸いにも軽量
な屋根、箱形に近い平面形状、鉄筋コンクリート
基礎などが耐震効果を上げ建物はほぼ無傷でした、

その後の余震は本震よりも恐ろしいものでした、
地鳴りがしてから揺れますので、避難はしなかった、
我が家族は3日ほど寝付けない夜をすごしました。

3日後に、当時大阪にあった事務所を確かめるべく
自転車、電車を乗り継いでやっとの思いで到着した
大阪市内は別世界、パチンコ屋は開いているわ、
繁華街は何事も無い盛況ぶり...リュックを背負った
自分達だけが何故か浮いている世界です。

ライフラインの復旧は、電気、電話が10日後、
たしか水道は1.5カ月、ガスは4カ月以上かかり
ました、

不思議にも私は自宅の設計時に災害に強い住宅を
心がけていました、

先ず水の問題、ちょうどこの敷地を確保した折り、
古家が建っていて井戸が2つ有ったのです、かなり
良質の宮水が出ますので、補修して再利用、水道と
井戸の2系統を全ての水廻りに備えました、そして
給湯は貯湯式電気温水器、これはもしもの場合は
飲用として使える。。。

これは全くその通りに利用出来ました、温水器は
倒れてしまいましたが、水漏れはせず少しづつ飲用
に使えました、そして最も復旧の早かった電気を
使っていたので、温水器を起こし井戸水を利用して
半月後には風呂に入れる状態に復帰しました。

あとは電気ですが、これは以前から発電機の設置を
考えていましたが、間に合いませんでした、でも
こんなゴーストタウン化した中で1軒だけ電気が
点いている状態は気まずいでしょうね、準備が出来て
無くて良かったのかもしれません。。。

それに、家具の壁への固定、これも気になっていて
そのうちにやるべく考え、最も危ない2階の本棚
のみは上部で固定していました、簡単な事ですので
怪我の主因となる、家具類の固定は実行すべきです、
そう言う私も今の自宅は半分しか固定出来ていま
せんが。。。早急にやっておこう

地震への準備は日ごろの心がけひとつでかなり
被害を食い止められることを実感しました、
みなさんも、明日とは言わず今日にも身近なこと
から準備してください。。。